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微睡む卵 うたかた@ちゃり

ここは海に浮かぶ円盤状の医学系実験都市「あこや」、そこから長いチューブで海中に吊るされた球体の病院都市は「白珠」という。
ここでテルミは都職員として実験動物の飼育管理と、それにまつわる陸上での調達業務に従事し、海と陸とを往復しつつ暮らしている。

「お疲れさまでしたー」
一日の業務を終え、マウスやラット、ニワトリその他、動物たちのケージをひとつひとつ点検してからテルミは出入口へ向かう。外部からの影響を避けるため、飼育室は「あこや」の中でも隔絶されている。二重扉をくぐり、エレベーターで何層も上がってテラスへ出た。暮れ方の風を浴びてテルミはほっと息を吐いた。
四方は海、西には金色の波が幾重にも連なって寄せる。東の空は薄青く暗くなっていくが、ここは陸地よりもだいぶ南に離れているので、冬のこの時期でも頭上の空はまだまだ眩しい。空には海鳥が飛び交っている。
仕事場にいる生き物たちのことを思う。実験材料となる動物たちに情動をまったく動かされずにいるのは無理があるが、できる限り割り切って作業する。
少なくとも職場を離れている間は、意識を切り替えてプライベートを充実させたい。テルミは終業後のテラスでいつもそうするように、肩を大きく回して海風を深呼吸した。
今日は恋人とデートだ。満喫して明日への活力にしよう。

テルミの恋人は「あこや」に出入りしている運送業者の、自転車便部門のメッセンジャーだ。就業時間や仕事場が定まらないので会うのはなかなか難しい。二人とも海と陸とのどちらにいるかは時によるし、今日はデートと言っても、それぞれの居場所で同じ時間にSNSのライブ通話を繋げ、画面を通して食事や会話を一緒に楽しむことにしていた。
明日テルミは休日で、続く二日間に陸上業務があるので今日はこれから実家へ戻る。
陸と結ぶ小型ジェット機の発着所でスマホをチェックすると、彼からのメッセージが早々と入っていた。

(お疲れー。今日は定時で上がれそう? 予定どおり自宅に帰ってね。では後で!)

それだけで温かい気持ちになってテルミはスマホを鞄にしまった。
八時までには家に帰れる。きっと彼の方が早く通話を繋げて待っているから、帰ったらすぐにPCの電源を入れよう。
彼と知り合ったのは五年前。休日にテルミが一人サイクリングを楽しんでいたら路上で行き倒れている彼に出会った。道端にうずくまる黒い塊、大きなゴミ袋が道にはみ出しているのかと思い、危ないから退けようと自転車を降りて近寄ってみると人だった。
ガードレールに立てかけられた自転車、ヘルメットやグローブなどの装備、そして背中のメッセンジャーバッグに気づいて、テルミはこれが事故でないならハンガーノックかと思い当たった。車で言うならガス欠のようなものだ。
「大丈夫? 紅茶飲む?」
自転車用のゴーグルで目元の表情は分からなかったが、とりあえず自分の自転車からボトルを取って差し出した。彼は無言で受け取り、呷るように口に運んだ。
「怪我はないの?」
彼が頷くのでテルミはホッとした。
「良かった。エナジーバーもあるよ。急がなくていいから」
手渡した栄養補助食品を彼はさっそく食べようとするが、手が震えていて袋を開けられない。テルミはそれを取り返して袋を引き裂き、中身を彼の手に置いた。
彼は有り難そうに何度も頭を下げたが、始終黙ったままだった。ハンガーノックのせいで喋る元気がないのかとテルミは気にも留めなかったが、後に親しく関わるようになってから彼には発話に障害があることを知った。
初めて会った日は特に名前も聞かずに別れ、それから二週間ほど後、テルミが職場の集荷場所に小荷物を持っていくとそこに彼がいた。
「あ! この間の」
彼もすぐに気づいて笑顔になり、首に下げた端末機の画面に指を走らせた。手袋をしたままだった。

こんにちは! 先日はありがとうございます。おかげで仕事に穴を空けずにすみました。またお会いできて嬉しいです

「あ、筆談のほうがいいのかな」
テルミが身振りを交えて尋ねると、彼はまたタッチパネルに書き込んで差し出す。

耳は聞こえるので口話で大丈夫ですよ(^^

それから彼は背中のメッセンジャーバッグからボトルを取り出してテルミに返してくれた。きれいに洗ってビニール袋に包んであった。
「わ、ありがとう。これ持ち歩いてたの? 邪魔じゃなかったですか?」

会えたら返さなきゃと思って、あなたを探してたんですよ。会えて良かった

彼は運送会社の名札を着けていた。名前は日本のものでなく、とても長い。
荷物送り状に押された担当者印は「唐須」となっていた。正式名は長いうえ日本語にない発音なので「カラス」を通用名にしているという。今日は集荷に呼ばれたが未梱包の荷物を待たされていると言い、その場で少し立ち話をした。互いの自転車や補給食のことなど。

以後、職場でたまたま顔を合わせれば雑談を交わす間柄から、やがて共にサイクリングなどを楽しむ友人になった。テルミは口話、カラスは筆談と身振りでコミュニケーションを取る。会って話すに全く支障はなく、むしろカラスのタイピングが恐ろしく速いのでSNSでのやりとりではテルミの書き込みが間に合わず、会話に間が空いてしまうこともあった。ある日の会話はこんな感じだ。

(テルミ! 虹が出てるよ。空を見てみて!)
(雨の後の空は綺麗だよね。今は建物の中? まだ仕事中かな?)
(ずっと部屋の中で仕事というのも大変そうだなあ。少しは陽の光を浴びたほうがいいんだけどね。僕は外を走る仕事だからいいけど)

(えっ虹、いいなあ。見えないよ。カラスは今陸地? 私はあこやにいるから)

(そうかあ、残念。写真撮ったから送るよ。大井のあたりにいる)
(画像)
(そう言えば、怖い病気が流行ってるらしい。テルミも気をつけて、疲れを溜めないようにね。働きすぎないように!)

(仕事終わって外出たとこ。おつかれさまー!)

最後の会話は繋がっているようにも見えるが、テルミの書き込みは二行目への返信だ。付き合いはじめの頃は「もっとゆっくり書いてよ、こっちの返事を待って!」と苦情を呈したりもしたが、ずれた会話も今では慣れてしまい、それぞれのペースで楽しんでいる。

陸地へ帰る小型ジェットの機中でも二、三、メッセージを交わした。今日は夕焼けがきれい、通勤で空を飛べるなんて羨ましい、もうすぐ着陸、お腹空いたー、など。
普段と変わらないフライトだったが、着陸間際にいつもと違う機内放送があった。
「ーーーの影響で首都圏の鉄道に遅れが出ています。〇〇線、△△線、…、各線50分以上の遅れ、ーー線は運転見合わせ…」
冒頭を聞きそびれ、テルミは眉をひそめる。電車は動いてさえいれば帰れるが、遅れるかもとカラスにメッセージを入れた。
即座に返信が来る。

(××線は比較的動いてるから〇〇駅回りで帰るといいよ。混雑してるようだから気をつけて。何かあったら連絡して)

カラスはこういった情報収集も判断も早い。頼りになるなあと思いながら機を降りたテルミは急ぎ空港通路を抜けて駅へ向かう。慣れた道だがどこか雰囲気が違っていた。そこここで人が所在なさげに立ち止まりスマホの画面を見つめたり通話したりしている。テルミも同じように自宅に電話をした。
『ああ、テルミ。大丈夫?』
案ずる母の声。
「うん、ちょっと遅くなるかもだけどこれから帰る。なんかあちこち混乱してるんだけど何があったの? ニュース見てる間がなくて」
『それがあたしもよく分からなくて。どっか外国のほうで事件? 事故か何かあったみたいで、帰れる人は家に早く帰れってテレビで言ってるの』
「何それ、外国でって、テロか何か? 最寄りの避難所とかじゃなくて、家へ帰れって?」
『まあともかく早く帰って来なさいよ、電車乗れそう?』
「うーん多分……、ま、とにかく帰るわ」
『気をつけてね』
駅改札前は人が溢れていた。確かに世界のどこかで何かが起きている気配はするが、電話も通じているし、電車もダイヤ乱れながら走ってはいる。群衆の中に危機感はさほどなく、ただ誰もが困惑していた。時おりスマホのニュースサイトをチェックしても目新しい情報はなかなか出てこない。混雑の中テルミはカラスのアドバイスに従って乗り継ぎ駅で地下鉄を降りた。
人波の流れに歩調を合わせてゆっくりと通路を進む。もしこの駅で改札を出て信号を渡り日の沈む方へ歩いて行くと、デートの時に二人が時々待ち合わせた公園がある。滝を模した噴水の広場でテルミは自転車を停めてカラスを待ったり待たせたりした。今日もそうなら良かったのに、とテルミは振り返る。

ごめん、遅れた、と身振りで詫びながらカラスは噴水とテルミの間に自転車を滑り込ませてきた。軽やかに自転車を降り、首に下げているタッチパネルに文字を打って見せてくる。
『また職質に捕まっちゃってた』
テルミは笑った。
「またぁ? 真っ黒い服ばっかり着てるから悪目立ちするんだよ。ゴーグルまで黒だし」
カラスは大きく息を吐いて、これまた黒い手袋の指で画面に文字を綴る。
『そういう服装をしたいんだからしょうがない』
「服の趣味まで名前に合わせなくてもいいのに。ま、どうぞご自由に。ボトルいる?」
ぬるい紅茶の入ったボトルを、カラスはありがとうの手振りをして受け取った。
カラスが一息つく間、二人並んで噴水のほとりに立っていた。
またカラスは画面に指を走らせて差し出す。
『この噴水の石積みって、震災の瓦礫を使ってるんだってね。知ってた?』
「うん、そうだってね。でも瓦礫でできてるなんて全然分かんない、きれいだから」
『だんだん忘れていっちゃうよね。この石のひとつひとつがどこかの誰かの家だったなんて』
「そうだねえ」
カラスの手の中にある画面からテルミは顔を上げ、それを持つ黒ずくめの人に目を向けた。
カラスは噴水を眺めていた。
そんなふうに細やかに物事を思い遣る人なのだ、と思って見ると、その横顔がテルミにはまるで初めて会う人のように感じられた。
「もう七十年も経つんだもんね、知ってる人のほうがもう少ないから」
『そんなに遠くないうちに、実際に体験してる人は誰もいなくなるんだ』
「そうしたら、何だろう、これは遺跡になるのかな」
『遺跡、そうだなあ。そこで暮らしてた人たちの遺跡。このまま何千年も、何万年も経ったら、これはどんなふうに伝わってるんだろうね』
「何万年って」
現実感のない数字にテルミは苦笑する。
「そんなに残るかなあ」
『残したいと思わない?』
「うーん、よく分からないな。自分が死んだ後のことは、その時代の人に任せるしかないし」
『テルミはそう思うんだね』
「人間そのものがさ、ずーっといつまでも栄えてるとは限らないし」
『それはまあ、分からないけど。じゃあ例えば、人間の次に栄える知的生命がいたとして、その生き物たちが人間の遺跡を見つけて、保護してくれるとしたら?』
「あはは。それはありがたいね」
『盗られたみたいで、嫌じゃない?』
「だってその頃はあたしもカラスも、誰もいないわけでしょう。何にしても後を引き継いでくれるならありがたいじゃない?」
思いついて付け足す。
「それよりさ、戦争みたいに、よその誰かが壊しに来るのは嫌だな」


雑踏に身をまかせるようにして電車に乗り込み、いつもの水路を北側へ迂回する経路で渡る。普段より四十分ほど余計な時間をかけてテルミは自宅に帰り着いた。
弟と父もすでに帰宅しており、家族が揃ったことに母は安堵した。
テーブルにとり置かれた一人分の食事を前にしてテルミは急に空腹を思い出し、急いでカラスにメッセージを送る。
「無事帰宅しました! アドバイスありがとう、助かった〜。ごめん、先にご飯食べてお風呂も済ませちゃうね。上がったらライブ通話繋ぎます」
『了解、無事で良かった。こちらは急がないからゆっくりでいいよ。通話繋いでのんびり待ってる』
両親と弟は居間の壁に掛かった大画面を眺めている。近頃では居間に家族が揃うのは珍しい光景だ。弟は自分のタブレットを手元に、幾つかの情報サイトをザッピングしているようだ。
「何か新しいこと出てたら教えて」
「うーん、情報が錯綜してるんだよねえ。大陸の方でバイオハザードとか、都内の大規模医療機関で事故とか……。大規模医療機関って姉ちゃんが勤めてるとこじゃないの?」
「マジか。何も連絡来てないよ。それは違うんじゃないかなあ」
テレビはずっとニュースを流しているが、帰路の途中にスマホで見たニュースとさして変わらない。公共交通機関の運行情報の他には、不要不急の外出を控え外出中の人は極力自宅へ帰るように促す言葉、どうしても帰れない場合は防潮堤の外には絶対に出ないようにと繰り返している。
街全体をぐるりと囲む防潮堤、百年前にはそんなものはなかったが、終わらない海面上昇に対応するために築かれた。今では海沿いの各都市はそれぞれが島のように分断され、いくつかの水路、空路で結ばれている。
休み明けの仕事がどうなるのか案じながらテルミは急いで食事や入浴を済ませ、居間に戻ると弟が振り向いて知らせた。
「姉ちゃん、非常事態宣言だって。防潮堤封鎖だって」
「はあ?」
「俺たち東京から出られなくなったよ」
家族全員、困惑した顔を一瞬見合わせて壁の画面に目を戻す。
画面をテロップが横切っていく。
《災害対策本部から発表 防潮堤の全てのゲートを閉鎖 期間未定》
ゲートが閉じれば都市間の水路でのアクセスはできなくなる。
さらにまた速報のチャイムが鳴り新たなテロップが追加された。
《同 風防天蓋を伸張》
現在の映像、と隅に表示の入った動画に切り替わる。都市の周囲をぐるりと巡る防潮堤の上端部から一斉に強化アクリルのチューブが放たれ、街明かりを映してきらきらと光る。それらが自動展開でハニカム構造を形成しながら上昇し、真上で一つに繋がる。夜景の街の上空に天蓋が張られる。
「何これ……。こんなこと、今まであった?」
テルミの問いに父親が困惑顔で答える。
「いやあ……、これは初めて見たな」
中継画像に被せてアナウンサーの声が淡々と流れてきた。
「今入ってきた情報です。東京都は近年流行の兆しを見せている遅発性ウィルス感染症の原因を海中医療実験施設白珠の生物災害によるものと断定し、同施設の閉鎖廃棄を決定しました。また政府は症候群の感染拡大を防ぐため国内各都市の防疫態勢を最大限に」
「すっげー!」弟が忙しなくタブレットを操作し喚声を上げる。「東京だけじゃないよ、全部だ」
交通情報の画面に点る各地のゲート番号、並んで一様に連なる「閉鎖」の文字。都市名に続けて「天蓋展開完了」の表示。これで空路も断たれた。
目を見張るような速さで日本中の都市が小分けにパッキングされていく。
「どういうこと……」
テルミは自室に駆け込んでPCを開き、カラスとのライブ通話に繋いだ。が、画面は暗い。
「カラス! ……今どこにいるの?」
文字を打ち込み同時に呼びかける。
黒い画面に文字だけが浮かぶ。
『いるよ。テルミ、ご飯はちゃんと食べた?』
すぐに応えがあってテルミは少しだけ安堵する。
「うん食べたよ。カラスは大丈夫? 今どこ?」
『テルミはちょっと薄着じゃない? 湯冷めしないように何か羽織ったほうがいいよ』
「えっ、うん」
部屋着の上にショールを巻きながら問い直す。
「ていうかカラス、そこどこ? 画面が真っ暗だよ?」
『テルミは家にいるんだね。ご家族もちゃんと帰ってる?』
「全員いるよ、ありがと。カラスは? 家なの?」
暗い画面に目を凝らし耳をすます。水の音が聞こえる気がする。テルミの耳によく馴染んだ音、大きく小さく、波が埠頭に打ち寄せる音。
「走りに行ってるの? こんな時に。どこの水路? 都内だよね?」
まさか、いくらカラスでも夜間、しかもこの非常時にそれほど遠くまで行くはずがない。都内と言っても広いけれど、まさか防潮堤の外にいるはずがない。もし外にいるなら、封鎖が解かれるまで自分たちは会うことができない。
テルミは胸元にショールを掻き合わせながら思いを巡らす。どうしてか今は自分ばかりが問いをまくし立てている。いつもならカラスがテルミの三倍以上喋るのに応えがない。
「カラス!」
『ごめんね。あこやにいるんだ』
「なんで!」
叫び返しはしたが、やっぱりか、とも思っていた。いつも仕事の後に眺めて一息つく海が画面の向こうにある。黒くうねる夜の波がかすかにあこやの構造物の灯りを映している。
「私には家に帰れって言っといて、なんでそっちにいるの。防潮堤閉まっちゃったよ、陸へ戻ってこれるの?」
『ごめんね、テルミ。多分もう会えなくなった。もっと長く一緒にいたかったんだけど』
「ちょ」
テルミは息を呑み、それから咳き込むように問いかける。
「そんな……何言ってんの。ねえ、ゲートの係の人に聞いてみてよ、何とか通してもらえないかって」
『無理だよ。街はどこも全部、この先何十年も閉じたままになる。僕らは中へ入れないし、僕らのほうでも、もう人間とは距離を置こうって決めたんだ』
「は? 何を言ってるのか分からない」
『テルミ、じゃあ説明するから聞いて。怖い病気が流行ってるから気をつけてって言ったよね。近ごろよくニュースでも取り上げられて、みんなが怖がってる病気。あれは実際には自然にずっと昔からあったんだ、みんな知らなかっただけ。そして僕らも人間たちが気付くよりずっと昔からいた』
「ちょっと待って。ちょっと待って」
テルミは呼吸を整えようと意識した。カラスの落ち着き払った様子に合わせるように。
「本格的にカラスの言ってることが分からない。もう会えないってどういうこと? もっと慌ててよ!」
カラスは柔らかな笑い声をたてた。その口から言葉は出ないが、笑うことはできるのだ。
『好きだよテルミ。この先もずっと。だからテルミは家族と一緒に、閉じた街の中にいて。そこなら当面、病気からも安全だ。僕らは外にいて、僕らの病気と闘わなきゃならない』
「病気ってなに。カラス、病気なの」
落ち着け落ち着けとテルミは自分を押しとどめる。カラスの言葉をちゃんと聞かなきゃならない。彼は何かとても大事なことを言っている、それは分かる。けれどもテルミは受け止めきれずにいる。
『僕は大丈夫。テルミが、最初に会ったとき特効薬をくれたから』
「え?」
『バイオハザードはあったんだよ。今じゃなく、ちょうど僕らが会ったころ。大陸で、卵生人を標的にした病気を研究してた施設で』
「なに、卵生人?」
『卵で産まれる人だよ。その施設では僕らを滅ぼそうとする病気を研究開発してた。で、わざとか事故かわからないけど六年前に、その病原体が施設の外に撒き散らされた。あっという間に広まって、僕もあのとき道端で死にかけてた。テルミがくれた紅茶で命を拾ったんだ』
テルミは画面の前で頭を抱えた。
「どう反応したらいいのか分かんないよ……」
『全部僕の妄想だと思うならそれでもいいよ。ともかく僕らはテルミのおかげで生き残った。僕らみんな、テルミには一生かけてもいいくらい感謝してるんだ。そのことだけはわかってほしい』
絶え間なく寄せては引く波の音がずっと聞こえている。
「あんな、適当な紅茶の一杯で」
カラスはまた笑った。
『テルミ、あの紅茶に何か入れたでしょ。ショウガと蜂蜜と、あと普通は紅茶には入れないもの』
「そんな昔のこと覚えてない」
『昆布だしが入ってたんだよ。テルミがボトルごと渡してくれたから、持って帰って研究できた。まさか昆布だしとの絶妙な配合で特効薬ができるなんてね』
「あああ、思い出した!」
あの日出かける前、たまたま作り置きの紅茶と間違えてめんつゆをボトルに注いでしまったのだった。匂いで気づいてすぐに移し替えたが、まあいいかとボトルをすすがずに紅茶を入れてしまった。
「バレてた……」テルミは両手で顔を覆った。
『テルミ、ありがとう』
「やめてー」
『話を整理するよ。今、白珠によるバイオハザードのせいで世界中に病気が蔓延ということにされてるけど、そうじゃない。あの病気は僕らが産まれてくるよりずっと昔から自然の中にあった。打ち勝つ方法のひとつは、卵で産まれてくること。そして僕らは卵生人だ。胎生人が気づくよりもずっと昔からこの世にいたけれど、胎生人の一部はそれに気づくと僕らを駆除する研究を始めた。そうして造られた病原体が世界中に広まってるけど、こちらは胎生人には無害なんだ』
「つまり……今は世界に卵で産まれてくる人とそうでない人がいて、それぞれを滅ぼしかねない二つの病気があるってこと?」
『そう。二つのうちのひとつは自然現象で、もうひとつは人工のものだ』
「……私はどうすればいいの」
『何も。ただ体に気をつけて、毎日元気に過ごしてくれればそれでいいよ』
「カラスはどうするの」
『特効薬はもうできてるから、僕らは僕らで身を守る。その上で、あとは自然に任せようってことになったよ』
「仕返しとか、しないの、……胎生人、に」
『しないよ。結果がどう転んでも、それが成り行きってことだから。僕らは何も壊したりしない。約束する』
テルミが言葉を失っているうちに、『じゃあまたね。元気でね』という文字列が画面に浮かんだ。
「え、あ、カラス! 待って! まだ私なにも」
通話は終わった。ログにはカラスの言葉だけが連なって残されている。

翌日になって郵便受けにテルミ宛の簡易小包が届いた。差出人の名前はなかったがテルミはカラスからだと思っている。街を出る直前に投函したのだろう。中身は小さな記録媒体で、大量のテキストデータが入っていた。何かのプログラムのソースコードらしかった。どんな働きをするものなのかテルミには見当もつかない。
それでもこれはカラスが、テルミに使って欲しいと託したものだ。これをPCに載せて動かすのにはどれくらいの月日と努力が必要なのかとテルミは天を仰ぐが、時間だけはやたらとあった。
天を仰げば特殊強化樹脂の天蓋がいつも視界に入るので、その度テルミはこれが現実だと思い知らされる。
その後カラスからの音沙汰はない。

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