お題ショート「窓」;ちゃり

(谷川俊太郎作「宇宙船ペペペペランと弱虫ロン」世界文化社ドレミファブックの一冊に載っていたこのお話、ロンがかわいそすぎるぞー!と感じた人も多いと思います。ロンを何とか救うことはできないか? 今回のショートはそのために書きました。ですので科学的に考えないで下さい。宜しく)

宇宙船ペペペペランが去った後、突き放されたロンは虚空を物凄い速さで飛翔し続けていた。
超小型宇宙船と言っていいほどの頑丈な船外作業服。ヘルメットの顔部分にあたる窓には、宇宙の星々が反射しているばかりだ。恒星の強い光から目を守るための偏光作用により、窓の外から中身の様子を伺うことはできない。
その窓の中では、ロンが歌を歌っていた。
ありったけの大声で、それは殆ど絶叫といえる極限の声だった。力いっぱい瞼を閉じて、長いこと途切れず歌い続けた。密閉された殻の中で誰にも知られず、誰にも届かない歌を。
やがて声は枯れ果て微かなささやきのようになり、それでも歌は終わらない。
力尽きたロンは懐かしい子守唄を自分のために一節一節区切るように呟きながら、そっと、ゆっくり目を開けた。
その時、その目に映ったものを言葉で書き記すことはできない。
ただそこにあるものがあるだけ。

ロンの体はとある辺境の恒星系に向かって落ちていった。充分な速度が付いていたので太陽には捉まらず、その向こうにあった幾つめかの惑星に引き寄せられていった。
まだ若すぎて生命を持たないその星に、ロンの体は落ちた。そして拡散し、凝縮し、空へ登り、雨のように降り注ぎ、それを繰り返し、長い時間が経った。過去か未来かも分からないほどの、長い時間が。

夜、二階の子供部屋の窓の中。温かなベッドの上で半身を起こし、子供はぽろぽろと涙をこぼし、すすり泣いていた。横にはママがいる。
「大丈夫よ、ママがいてあげるから。まあ、こんなに泣いて、どんな怖い夢を見たのかしら」
まだ小学校に上がったばかりの、小さなロンの背を撫でてママは言った。
「大丈夫よ。ママは絶対あなたを一人にしたりしないから。ずっとそばにいるからね。だから安心して、良く眠るのよ」
ロンは涙をいっぱい溜めた目を上げて、悲しそうにママをじっと見つめた。
「ママ。ごめんなさい。怖い夢を見たんじゃないんだ。ぼくは行かなきゃいけないんだよ。ママ、ごめんなさい」
「どうして謝るの? どこへ行くって言うの?」
「ごめんなさい、ママ」
窓の外、夜の闇、星の海のその向こう、ずっとずっと果てのない彼方から、未来が子供を呼んでいた。
夜の窓の外に降り注ぐ星辰の無限の光。ロンは、今まで取りとめのなかった「自分」というものがそのとき確かな形を成したことを知った。そして心を引き裂かれて泣いた。
ママ、ぼくはいつかあなたを突き放して、ずっと遠くへ行ってしまう。
ママを独りぼっちにしてごめんなさい。ずっとそばにいてあげられなくてごめんなさい。
行きたくない、怖い。でも。
ぼくは行かなくちゃいけないんだよ、ママ。

その夜、ロンはママの腕の中で泣き疲れて眠った。
翌朝は夢のことなど忘れたように、いつもと同じように起きて学校へ行った。
それからもロンは人一倍臆病で、泣き虫だったけれど、心の奥ではいつも未来とまっすぐに繋がっていた。そこへ向かって、行けば戻れない階段をひとつひとつ上っていった。
一人ぼっちで虚空を飛びながら、大きな声で歌を歌った、その歌は悲しみのせいだろうか。
それを言葉で書き記すことはできない。
ただそこにあるべきことがあっただけ。

むかし、むかしのお話。

 

 
 

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11月のお題「薔薇」;ちゃり

ひとり故郷へ急ぐ人がいる。
小さな村の、城壁の中、シティホールの中庭にあるバラ園へ。
男たちがみな戦へ出かけるとき、村に残る者たちに託した、小さいけれど豊かなバラ園。
始まりからずいぶん永い時がたち、今、最後に咲いた一輪の薔薇が、誰にも知られぬまま静かに散っていこうとしている。
最後の一輪の薔薇が、密やかにこの地を去っていこうとしている。

いま、一人きりで戦場から抜け、物陰に隠れて追っ手をかわしながら、その人は村へ。バラ園へ。
間に合うだろうか。薔薇が枯れ朽ちてしまう前に村へ辿り着き、その人は、守ることができるだろうか。
大切な、かけがえのないものを、守ることができるのだろうか。

自らの身を守りながらの帰路は、時に迂回や後退を強いられ、じりじりともどかしい。
生まれ育った村であるのに、いつでも飛んで帰れる場所ではなくなっている。
戦場では、将の号令の下、考える間もなくただ前へ前へと突進し続け、いつの間にか遥か遠くまで来てしまっていた。
始めは小さな野火のようだった戦。どこか遠い国々の出来事だった。どうしてそこへ出かけていくことになったのか、なぜ自分たちが銃を取ったのか、正しく知っている者はいない。
連戦に次ぐ連戦、勝利また勝利。切れ切れに村に届く、熱に浮かされたような報せ。その間に間に、村の薔薇は一輪、また一輪と消えていった。
甘露のような勝利に酔い痴れ、戦火は広がる。とどまることなく、周囲を焼き尽くしていく。

その中でふと正気に返った、たった一人のひと。
その人が今、ひとり戦場を抜け出し、故郷の村へ走る。
間に合うのだろうか。薔薇が散る前に…
炎と煙、火薬と瓦礫の匂いの中を。
赤く燃える空の下を。

いま、村にはもう誰もいない。
残っていた人々もみな、散り散りに逃げ去った。
残された空っぽの城壁の中、シティホールの中庭で、誰にも知られぬまま咲いた、一輪の薔薇。
それを見る人はなく、葉の手入れをする者も、水を撒く者もない。
時に火の粉を、煤の匂いの雨を浴びて咲いた。
時に静かに遠くから渡って来た風を受け、星空に宥められて咲いた。
汚れた薔薇でありながら、同じだけ清らかな薔薇。たった一輪の最後の薔薇。

その人は走る。
この世界に、たった一人残った正気の人。
間に合いますように。本当に大切なものを守れますように。
祈りが、届きますように。
どうか、まだ、間に合いますように。

 

 

 

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10月のお題「ケーキ」;ちゃり

たかこさんは、お誕生日にケーキを焼きました。
ひとり暮らしの小さなお家に、おともだちの、まさえさんを招きました。お茶をいれ、さあ食べようと思ったところに、お客さんがありました。

「お誕生日 おめでとう」
回覧板を回しにきた、お隣の奥さんでした。たかこさんは、お子さんたちにもと、ケーキを半分に切って分けてあげました。
お隣の奥さんはお礼を言って、少し話してすぐ帰りました。
では、まさえさんとケーキを食べよう、とナイフを手に取ると、
「お誕生日 おめでとう」
よく糸や針を買うお店の娘さんが、品物を届けに来てくれました。
たかこさんは、半分になったケーキをさらに半分に切って、分けてあげました。
その人が帰ると、入れ替わりに
「お誕生日 おめでとう」
お裁縫の仕事のお仲間が、これからボタンをつけるシャツをかご一杯に入れて持って来ました。
たかこさんはまた、半分の半分のケーキを半分に切って、分けてあげました。
その次には、兄一家がやってきました。
「お誕生日 おめでとう」
たかこさんは、ケーキの半分の半分の、半分の半分を、切って分けてあげました。
最後にやってきたのは、この国の王様でした。
「たかこさん お誕生日 おめでとう!」
賑やかに鳴り物入りで訪れた王様は、残ったケーキのちっぽけな切れ端を見るなり、
「なあんだ、これっぽっちなの」
と言って、ぱくりとひとくちで平らげてしまいました。
お皿に残ったクリームを、お行儀悪く指ですくってなめています。
「ねえ、もっとないの」
と、辺りを見回し、何もないと分かると、がっかりして帰っていきました。
まさえさんも、たかこさんも、お祝いのケーキを、ちょっぴりも食べていません。
唖然として顔を見合わせ、ため息をつくと、あとはのんびり、二人きりで美味しい紅茶をいただきながら、楽しくおしゃべりをしました。
たかこさんのお誕生日は、いつもこんなようすです。

さて、それからの一年は、だいたいこのようなことです。
お隣の奥さんの誕生日には、お祝いのケーキを焼いて持って行き、訪ねたついでに、やんちゃな子供たちの服を上手につくろってあげます。
兄の一家のそれぞれのお誕生日には、ケーキと、お祝いの品を持ってそのつどでかけます。品物は、お得意のお裁縫でつくった人形や、シャツや、おもちゃです。
お店の娘さんのお誕生日には、ケーキはありません。食べ物を喜んでくれないので、毎年、端切れで作った可愛らしい小物を贈り物にしています。
仕事のお仲間の、それぞれのお誕生日には、やっぱりケーキを焼いて、仕事場に持って行きます。
そうして誰かのお誕生日のたびに、みんなと楽しい時間を過ごすことができました。
そうそう、王様のお誕生日にも、たかこさんはケーキを焼いて、ご挨拶に行きます。
王様は、いつもお城でたいへんなご馳走を食べているのに、楽しみに待っていてくれます。たかこさんは不思議に思いながらも、やけっぱちみたいに大きいテーブルの端と端で、にこにこと大声で(席が遠いのです)お話をします。
とはいえ王様は、いつも自分の好きなことばかりを話すので、たかこさんはけっこう疲れます。

たかこさんが、いちばん待ち遠しいのは、まさえさんのお誕生日です。
何日も、何週間も前から、
「今年は、どんなケーキを焼こうかしら! どんなお祝いをつくろうかしら!」と、うきうきした気持ちで考えます。

ところが、この年はお砂糖が買えませんでした。世の中がどうなっているのか、お砂糖のねだんが、びっくりするほど高くなったのです。
たかこさんは頭をひねって考えました。そしてケーキの代わりに、パンをどっさり焼きました。外側を少し硬くして、日持ちがするように焼きました。
お祝いには、テーブルかけを縫いました。
「お誕生日、おめでとう」
「ありがとう。ようこそ、さあどうぞ」
食卓にテーブルかけを広げると、まさえさんはその上にまずお茶を出し、それから大きなガラスのボウルを置きました。
ボウルの中には、色とりどりの小さな飴玉が山盛りです。きらきら輝いています。
「わあ、きれい」
まさえさんは嬉しそうに笑いました。
「商店で福引をやっているでしょう。あなたがくれた券を持っていったら、三枚足りなかったの。わたし、つい『あら、残念だわ』と言ったら、並んでいた人たちがみんな、半端の券をくれたのよ。それでわたし、二回もくじを引けたわ。そしたら、お店の人が、おまけにもう一回引かせてくれたの。全部はずれだったわ。この飴玉は、はずれの残念賞なの」
「あら、そうだったの。それはすごいわ。良かったわねえ」
まさえさんはパンとテーブルかけをとても喜んで、気に入ってくれましたし、飴玉は甘くて、とても美味しかったのです。お茶は温かく、おしゃべりは尽きず、それはそれは素晴らしい一日でした。
夕方になって、たかこさんはおいとましました。
きれいな夕空を見上げて、一番星を見つけたりしながら、お家へ帰る道をてくてく歩いていきました。
めでたし、めでたし。

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お題ショート「入道雲」;ちゃり

 晴れた青い空に、くっきりと白い大きな入道雲が、もくもくと育っている。
 日の光が大気を、磯の岩を、潮溜まりの水を温めている。

 何億年もの時を 暗い温かい海の中で過ごしたきみは
 きょう 夏のこの日に 地上へやってきた
 おめでとう おめでとう ようこそ この空の下へ

 先んじてやってきていた草、虫たちがみなきみを歓迎している 祝福している きみを守っている
 きみはたくさん食べて眠って どこへでも行きたい場所へ這い回る

 やがてきみはその足を力強く踏みしめて 湿った土から腹を持ち上げ
 地面を蹴って進むだろう 

 そのころになれば きみは自らの内に熱い炎を燃やし 降りしきる雨や冷たい風にも耐えるだろう

 今はまだ柔らかい 頼りないその手もいずれ土から離れ 求めるものを掴むだろう
 咽からほとばしる叫びはいつか言葉となって 求めるものの名を呼ぶだろう

 この空 天空を目指すあの白い雲のように
 広い空へ 駆け昇っていくだろう 高く遠く

 

 暑い夏のある日、積乱雲の下で雷に打たれたその人が、幾度目かの夏の今日、意識を取り戻した。
 長い年月がその人の体をすっかり変えていたけれど、開かれたその目は、はっとするほど澄んでいた。
 深い水の底からたった今這い上がってきたように、重くて仕方がないように、その手を動かし、身じろぎをする。
 家族がその人の手を取り、その目を見つめ、名を呼ぶ。
 その人に言葉は無く、ただじっと見つめ返す。
 名を呼ぶ声が、涙とともに尽きることなく、その人に降り注がれる。
 繰り返し、繰り返し、乾いた土を癒す雨のように。

 

 水は流れて、海へ帰る。
 晴れた青い空に、くっきりと白い大きな入道雲が、もくもくと育っている。
 日の光が大気を、磯の岩を、潮溜まりの水を温めている。

 何億年もの時を 暗い温かい海の中で過ごしたきみは
 きょう 夏のこの日に 地上へやってきた
 おめでとう おめでとう ようこそ この空の下へ

 

 

 

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お題ショート「草原」;ちゃり

 私は防護スーツに身をすっぽりと包み、連なった三つのチェンバーを通り抜け、汚染地域の中に入る。
 周囲を幾重もの有刺鉄線に取り巻かれた正円形のその土地では、外周から中央へ移動するに従って木々が姿を消していき、森林限界を超えた高地のように、しばらく広い草原が続く。さらに中央へ進んでいくとやがて草さえまばらになり、石ころと白っぽい砂の荒地となる。
 そのグラウンド・ゼロを取り巻く草原の家に、私の父は住んでいる。
 年に二度、私は防護スーツを着こんでバックパックを背負い、父に会うため、懐かしい我が家へ向かう。
 私は広々と青く澄んだ空の下、夏の日差しを浴びながら、宇宙服にも似たスーツ姿で、草原を割って進む。遠くの畑にいる村人に、手を振って挨拶をする。相手は麦わら帽子、私はヘルメットで頭を覆っている。

 私が高校生だった頃、この土地は閉鎖された。
 学校から帰ると、両親があたふたと旅支度をしていた。私にも、持ち出せる荷物を今すぐまとめるよう言った。ピクニックに出かけるような軽い気分のまま、両親とともに向かったシティホールには、村の住民が一人の例外なく集められた。私たちはそのまま大きなバスに詰め込まれ、手荷物だけで村を強制退去させられた。
 バスを降りた街で、私たちには公営住宅が割り当てられた。備え付けのテレビが延々と広報を流しており、それで私たちは、住んでいた村を含む一帯が閉鎖されたことを知った。それきり鉄柵の内側への立ち入りは禁止されている。
 しかし、もとから野山の中で育ったような村人には、畑や牧場から離れて暮らすなど考えられないことだった。四角張った街なかの狭い公営住宅を嫌って、住み慣れた家に勝手に戻っていく者が後を絶たず、やがて禁止令は有名無実となった。今では、村人のうち七十歳以上の者に限って、もとの家に戻って住むことが黙認されている。
 ただし防護スーツを身に着けないまま柵の中に入れば、二度と外へ出ることはできない。ただ一つの出入り口である三連のチェンバーを、スーツなしで通り抜けようとすれば、洗浄剤の渦の中で窒息してしまう。また、鉄柵の層の間には高圧電流が流され、触れれば人、動物の差別なく命を落とすことになる。
 ともかくも、家に戻った住民のうち、もう一度外に出ようと望んだものはいない。
 いま、村には老人たちだけが住み、共同で畑と牧場を管理しながら、自給自足の静かな日々を過ごしている。

 村に戻った者の家族には、年に二度の面会が許されている。ただし条件として、家の周りの土や植物などの試料を採取し、持ち帰る義務がある。
 私は家のそばまで来ると、そっとバックパックを下ろし、シャベルで庭の土を草ごと掬ってボトルに入れ、シールしてパックの底に押し込む。何となく、そういう様子を父には見せたくなかった。
 草が繁りすぎて、もうどこまでが庭でどこからが草原なのか分からない。が、庭にかがんでいると、子供の頃のようすが鮮やかに思い出される。
 今ごろの季節は、芝刈りをしてお駄賃を貰い、ソーダ水を買いに走ったっけ。大好きだったあの商店は、今は空き家だ。
 そうして草原を眺めていると、昔のぼくに小銭をくれた時のように、父が家から出てきた。古びたチェックのシャツ。よれよれのズボンは、もう何年も前に母が継ぎを当てた部分が、またほつれ始めている。
 「父さん」
 「おお、お帰り。元気にしていたか」
 会うと私たちはいつも庭で話をする。
 外から来た者は防護服を脱ぐことはできず、家に入っても、お茶を飲むこともできない。
それなら、通りすがりのように忙しいふりをして、短い立ち話を交わすだけにしておいた方が、自然な感じがするからだ。
 私はバックパックから家族の写真や食料、街から持ってきた手土産を出して父に手渡した。
 父は嬉しそうに、幼い孫の写真に見入る。
 食料の包みに気づくと困ったように微笑み、ここに持ってこないで自分たちで食べればいいのにと言う。
 とはいえ一度持ち込んだものを持ち出すことはできないから、父は受け取る以外にないが、普段は仲間と作った畑の作物を食べて暮らしているのだ。年に二回ばかり、汚染のない水や食料を食べてもどうにもならない。それでも私は、来るたびに街の食料を手土産にする。

 草原に風が吹いて草が波打つと、波のまにまに、広い放牧場に散らばった羊の姿が見える。
 この美しい景色は隅々まで、見えない毒に汚染されている。透き通った泉の水も、草も、虫も、生き物も、人も。
 私は短い帰郷を終えるときにいつも、医者のいないこの土地に残る父に、
 「体に気をつけて」
と言い、父は私の忙しい仕事と不規則な生活ぶりを心配して、
 「大事にしろ」
と言う。
 そして抱擁を交わす。私の手に触れるのは、防護服の内張りの布地。父の頬に触れているのは外側のごわついた布地。それを、父はどのように感じているだろうか。
 二度と触れることはできない、愛しい父母、私を育んだこの家、土、草、風。こんなにも美しく心を震わせる景色。
 いま私のすぐ傍にあって、足元から美しく広がるまま、永久に失われた、私のふるさと。

 

  

   

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6月のお題「館」;ちゃり

小学生の娘がもう二学期も間近になって、夏休みの自由研究ができていないと言う。ぼくは娘を連れて都立の公園へ、古い建物を見学に行った。
その公園には、地域の古い由緒のある建物を移築し保存してあり、建物によっては中に上がって見学ができる。ジオラマ的というか、箱庭の中に入り込むような楽しさがあり、ぼくは好きな場所だ。

 * *

ぼくの家は昔から貧しくて、住んでいた家は公営のアパートだった。
小さな子供だったころ、そのアパートの裏山には大きなお邸があった。
ぼくは親に叱られたり何か嫌なことがあったりすると、よく一人で裏山を探検したのだけれど、ある時うっかり、そのお邸の敷地に入り込んでしまったことがある。あんまり広くて木も繁っているので、周りの雑木林との境目が分からなかったのだ。
「時々迷い込んでくるのよ。犬とか猫とか」
そう言って迷惑そうにぼくを見下ろした、お邸の主人は中年の女性だった。
お庭の花畑、と言っても子供の目には雑草と見分けのつかない野草苑だったものを、知らず踏み荒らしていたぼくを彼女は見つけ、シャツの後ろ襟を掴んで邸内に連行した。
玄関の広間に現れた、黒いお洒落なスーツ姿の初老の男性にぼくを突き出し、
「倉庫に入れて、警察に連絡して」
と言うので、ぼくは襟を掴まれ半分ぶら下がったような状態のまま、わあわあ叫んで暴れた。
「お嬢様、子供のことですから」
中年のお嬢様からぼくの身柄を引き受けた男性は、ぼくを居間の古びたソファに座らせ、今後気をつけるようにと穏やかに諭した。
お嬢様は、まだつんけんしながらも、ともに居間に座り、彼に紅茶を淹れさせた。警察と言ったのは、まるきり本気ではなかったらしい。
居間の窓から庭に視線を投げ、ため息混じりに言った。
「生け垣が荒れてしまって。庭師がいないから困ったものだわ」
ぼくは気がついたことを言った。
「おばさん、お茶を淹れてもらったら、ありがとうって言わなきゃ駄目だよ」
「おば…何ですってっ」
男性は咳払いをしたが、一瞬にして笑いをこらえたのをぼくは見逃さなかった。
「お嬢様、子供の言う事ですから」
お嬢様は散歩に行くと言って出て行ってしまった。
「おじさんは優しいね」
「お嬢様もお優しいんですよ。ただ近頃ちょっとお忙しくて、お疲れでいらっしゃるので」
ぼくは少し図々しくなって、出されたお茶菓子をぽりぽり摘みながら部屋を見回した。
邸の家具調度はみな立派だったが、どれも相当に古びていた。
テラスの付いた、大きすぎるほどの洋窓からは庭の様子がよく見えたが、やはり雑草ばかりが繁っているように思えた。
出された菓子はビスケットだったと思う。初めて見る洋菓子だったので珍しく、とても美味しく感じた。
「これ美味しいね。持って帰ってもいい? お土産にしたい」
彼は微笑んだ。
「構いませんよ。包んであげますから、ちょっと待っててください」
「おじさんは何でもしてくれるの? うちのお父さんは家にいても何にもしないよ」
穏やかに笑って、彼は言った。
「私はお父さんじゃありませんから。使用人なのですよ」
お菓子を銀紙に包んで手渡してくれ、ぼくがそれを持って帰ろうとしているところへ、お嬢様が戻ってきた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「あら。あなたまだいたのね。庭の花、持って行きなさいよ」
お嬢様は多少機嫌がよくなったらしく、ぼくと一緒に庭へ出た。
花なんかどこにと思ったが、よく見ると雑草のような草のあちこちに、小さな花が散りばめられたように咲いていた。
「佐野。鉢に移しておいて」
ぼくは慌てて手を振った。
「あ、鉢は駄目。お母さんが怒るから」
「どうして?」
「知らない。鉢は根が付くから駄目なんだって」
「あら、そうなの」
「でもお花は欲しいなあ。お姉ちゃんは喜ぶと思う」
「じゃ、好きなの切って持って行きなさい」
お嬢様はぼくのほうを見ようとはしなかったけれど、声音はずいぶん優しくなっていた。
「さっきはあんなに怒って悪かったわね。もうこの庭、来月には潰されてしまうのよ。今のうちに好きなだけ持って行くといいわ」
そう言うときびすを返して玄関に向かい、扉を開けてくれる彼に言った。
「佐野、長いこと世話になったわね。ありがとう」
「お嬢様、そんなことを仰らないで下さい」

ぼくが花とお菓子を持って帰ると、姉は緊急入院していたので、お土産はお土産ではなくなってしまった。
ビスケットは時間が経ったからか、一人で食べても、ちっとも美味しくなかった。
姉はやがて良くなって、退院する日にもう一度花を貰いに行ったら、お邸はきれいさっぱりなくなっていた。
ぼくは木杭と鉄条網の張られた更地を前に、口をあんぐり開けて立ちつくしてしまった。
後で母に聞いたら、邸の主はもうずいぶん前に破産して、荒れ放題の邸にそれでも居住権を主張して居座っていたが、つい最近やっと出て行ってくれたのだそうだ。
まもなくお邸跡もろとも裏山のてっぺんは平らにならされ、たくさんの宅地が造成されて、そこそこ中流の家々が立ち並ぶようになった。
今は多くの家族がそこに住んでいて、それぞれに意匠を凝らした庭に草花を育て、美しい街並みを見せている。

 * *

公園に行くと、建物がひとつ増えていた。
よそで展示されていたものが、敷地の都合などで移設されて来ることが時々あるのだ。
あの当時、邸の外観は庭木にほぼ埋もれていたから分からなかったのだが、居間に入ってみて気づいた。
あのお邸だった。大きすぎる窓から見える風景は、きれいに刈り込まれた芝生に変わっているけれども。窓の外のテラス、窓枠や床の様子で分かった。
あのときのビスケットの味も思い出せる。
三十年前、この部屋に立っていた彼と、あのお嬢様はどうしたのだろう。
帰りがけ、公園の管理事務所に尋ねてみたが、住んでいた人のことは分からなかった。

家に帰ったとき玄関で、
「お帰りなさいませ、お嬢様」
と言ってみたら娘に非常にウケて、そのあと妻にまで何度もやらされて、参ってしまった。

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お題ショート「おひさま」-2:麻唯

 朝、目覚めて最初にすることはよろい戸を開け外の光を入れることだ。

 今朝の様に天気が良ければそのまま窓を開け風も入れる。初夏の香りのする今の季節はとても清々しい気分になれるので好きだ。

 俺は暫し窓辺に佇んで朝の光を楽しむ。まだどこか白々とした様子の生まれたての光が身体の隅々まで行き渡り、万物の生命を育むのだと実感できる。ほんの僅かな例外を別に、俺達はこの光と熱によって生かされているのだ。

 どこか眠気を引き摺っていた身体もやがて血をめぐらせ活気に満ちて来る。一日の始まりだ。俺は大きく伸びをして窓辺を離れた。

 俺は田を耕し、羊達を育てて日々の糧を得ている。毎日毎日お日様の下、真っ黒に日焼けする生活だ。妹達は焼けすぎて怖いから嫁の来手がないのだと口を揃えて言うが、そんな事で判断するような人を嫁に貰っても長続きはしないだろう。この生活は決して楽ではないから。

 昔は神童と言われていたのにねぇ…と、少し残念そうに、そして申し訳なさそうに零すのは母だ。確かに幼い頃は畑仕事に就くなどとは誰も思っていなかっただろう。それこそ俺本人以外には。

 俺はずいぶん幼い頃に陽の光の下で毎日暮らすのだと決めていたから、父の後を継ぐのは苦ではなかった。それが些か早過ぎたとしても。

 俺はいつもお日様の照るところにいると約束したんだ。遠い遠い幼い頃に。

 羊達が散歩に走って行くのを見送りながら空を見上げる。いい天気だ。こんな天気の日は幸せで、それでいて少し胸が詰まる。

「兄さーん」

 ふいに、羊達を掻き分けるようにして真ん中の妹が駆けて来た。スカートが翻るのも気にしない様子は、俺の嫁とり以前の心配だろうと思うのだが、本人はいっかな気にならないらしい。行儀見習に出た先でちゃんとやっているのだろうか。

「どうした? そんなに息急ききって。もう追い出されたのか?」

 この様子ではそんな心配はいらないだろうと判っているが、ついそんな言葉が出てしまうくらい、休暇を貰って帰って来るには早過ぎた。

「ご心配なく! そんなんじゃありません。早く兄さんに教えたくて半日お休みを貰っちゃった。手紙が来たのよ!」

 興奮気味の妹は纏いつくようにして俺の顔の横で紙を振り回す。よほど嬉しいらしい。

「手紙?」

「そう。お礼の手紙。夕べお部屋に灯りを置いたのよ。そうしたら今朝これが置いてあったの。兄さんが言った通り怖い人じゃなかったわ」

 その言葉を聞いて俺は目を見張った。夕べと妹は言った。では奇しくも昨日届いたのだろうか。あの何かと誤解されている幼馴染みに。とても本物には適わないが彼が忘れかけているだろう灯りが。

 見せて貰った手紙は簡素なものだった。灯りをありがとう…と、それだけの短い文。多分彼は覚えていないだろう。妹も知る筈もない。昨日が彼にとって特別な日だったとは。

「星見の塔なんて…って皆に言われたけど行って良かったわ」

 まだほんの短い日数しか経っていないと言うのに、妹の表情はどこか大人びて見える。人々が敬遠するあの場所で、妹は何を学んで行くのだろう。

「さて。もう行かなくちゃ」

「……そうだな」

「うーん。いい天気ね。お日様が気持ちいいわ。お花を少し貰って行ってもいいでしょ?」

「ああ」

 知らず2人で天を見上げた。だいぶ高くまで昇った太陽がその温もりを惜しみなく分け与えてくれる。気持ちのいい日だ。

 こうしてお日様を見上げる度に、俺は願う。

 独り闇の中、もう遠い約束など慮外の生活を静かに静かに送っているあの幼馴染みに、この温もりが届くといいと。

 お日様を見上げる度、何度も思う。

 既に独りよがりでしかなくないことは承知していても、この約束をずっとずっと守って行こうと。

 小さな花束を手に、来た時とは逆ののんびりした足取りで妹が戻って行く。

 その背が小さくなるのを見送りながら、俺は、あの日眩しい光の下で笑っていた彼の懐かしい顔を思い出していた。

 

 

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お題ショート「おひさま」;ちゃり

 大きな井戸がありました。大きな大きな井戸です。
 お城の石垣のように高い石積みで囲まれ、けれども釣瓶がありませんでした。だから、誰もその井戸から水を飲めません。
 むかーし、そこあった大きな町の偉い人が、水を独り占めにしようとして石で囲み、そのうえ釣瓶を切ってしまったのです。
 そうして、不便になった井戸には人が来なくなり、最後に残った偉い人もやがて寂しくなって、どこかよその町へ引っ越してしまいました。
 だから、この立派な大きな井戸の周りには、今は砂が吹き寄せるばかりになりました。

 あるとき、その大きな井戸の石積みのもとに、五つの方角から五人の人が、それぞれやって来ました。
 一人は、大きくて立派な皮の帽子を被っていました。
 一人は、丈夫な糸と針を持っていました。
 一人は強くて長いロープを、
 一人は油を、
 そしてもう一人は何も持っていませんでしたが、とても力持ちでした。

 五人は石積みの下で出会い、挨拶を交わすと、皆が同じ手紙を受け取っていたことが分かりました。
 その手紙は、川原の岩や、窓枠や、丸太の切り口、洗濯場の石の床や、飼っている馬の背中に、雨で書かれてあり、それぞれの人が読むと、すぐに乾いて消えてしまいました。
 荒地の真ん中にある井戸に、今すぐ私を助けに来てください。と、書いてあったのです。
 そうして五人が、大きな井戸の元に集まったのでした。

 けれども、あたりに助けを求める人の姿はありません。
 力持ちが、石積みを井戸の縁までよじ登りました。
 そこに、釣瓶のない滑車が錆付いているのを見つけました。
 深い井戸の底を覗き込むと、暗い水面にお日さまの光が小さく跳ね返ってちらちらしていました。
 日の照りつける中、長い道のりを歩いてきた五人は、とても喉が渇いていましたので、ともかくも、井戸の水を飲みたいと考えました。
 そこで、五人は頭をひねりました。
 まず、皮の帽子をロープの端に、うまくバケツの形になるように、針と糸で縫い付けました。
 そうしてロープを掴んでくるくると振り回し、石積みの上に放り上げると、帽子のバケツは、うまく井戸の内側へ入っていきました。
 力持ちが着ていた襤褸を脱いで、それに油を沁みこませ、口にくわえてふたたび石積みに登り、滑車をごしごし磨いて錆を取りました。
 くるくる回るようになった滑車に、帽子バケツの付いたロープをひっかけて、完成です。
 皆でロープを引いて、手繰り寄せた帽子は、冷たく澄んだ、きれいな水で満たされていました。
 五人は好きなだけ水を飲んだあと、帽子に何か黒い小さな生き物がくっついているのに気がつきました。
 それは小さな小さな山椒魚でした。山椒魚がしゃべりました。
「皆さん、どうもありがとう。井戸が直って、人が戻って、もう一度ここは大きな町になるでしょう。
 昔、ここは小さな泉だったのです。周りは緑で、木漏れ日がきらきらする水辺に子供たちが集まって、楽しく過ごしていました。けれど今は石と泥で固められておひさまも殆ど当たらず、一人きりで、私は寂しかったのです。だから、井戸の底をどこかへ流れていく水に言伝を頼んだのです」
 嬉しそうに、尻尾や小さな手足を一所懸命うごかしてしゃべる山椒魚の姿がおかしくて、みな笑いました。
 力持ちが言いました。
 そんなら、もっと大勢仲間を呼んで、この石積みを崩してしまおう。もとの通りの泉に戻そう。
 後の四人も賛成でした。もちろん山椒魚もです。
 五人の呼びかけで、井戸の周りにはどんどん人が集まってきます。
 石積みを崩す作業が始まりました。井戸の中で、山椒魚は待っています。
 おいしい水はいくらでも飲めます。仕事に疲れれば、頭から浴びたっていいのです。作業はどんどん進みました。
 さあ、とうとう最後のひとつになった石をどかそうとした時のことです。
 どういうわけか、力持ちは最初で最後の失敗をしました。手が滑って、大きな石を取り落としてしまったのです。傍で見守っていた山椒魚の上に、石は落ちました。
 みなが慌てて石をどかし、心配そうに、山椒魚を取り囲みました。
 山椒魚は言いました。
「皆さん、どうもありがとう。ここは泉に戻るでしょう。私はいなくなりますが、そういう約束だったのです。ああ、嬉しいな。おひさまが笑っている。木漏れ日がきらきらしている」
 そのときにはまだ、泉の周りに緑はありませんでした。
 けれどもやがて、そこは山椒魚の言ったように、美しい水辺になりました。
 人たちは祠を建てて山椒魚を祀り、きれいな水を飲んで仲良く暮らしています。
 今でも、木漏れ日のきれいな季節になると、祠の周りに集まって、謡や踊りを奉納します。

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4月のお題「真夜中」-2:麻唯

 目が覚めた時、一瞬時間を間違えたのかと肝が冷えた。
 長年この生活を送っていて、リズムが出来上がっている筈なのに何と言うことだと。
 けれど慌てて身を起こしてみれば、間違えたと思ったことが勘違いだったのだと安堵にほっと息を吐いた。部屋を取り巻くひんやりとした空気と静寂はいつもと変わりなく、自分の体内リズムは正常に機能していた。ただ部屋を入ってすぐの床に置かれた灯りだけがいつもと違っていて、それが感覚を狂わせたのだ。

 真夜中。
 僕はひっそりと一人目覚める。灯りなど全くない暗闇の部屋で。

 ぼんやりとすら見えない暗闇に包まれた部屋の中で着替えを済ませ、身体が覚えている足取りで部屋を出る。塔の中も、最上階に上がる階段も何も見えない。ずっと暗闇に包まれた中を静かに歩いて最上階の扉を開けた途端、やっと僕の世界には灯りが射すのだ。

 それなのに今夜は部屋に灯りがあった。淡い橙色がゆらゆらと揺れるその小さな光が蝋燭のともす灯りだと気づくのに時間が掛かった。ずいぶんと久しぶりに目にしたから。灯りに照らされた部屋の中を見るのもこの部屋で暮らすようになった直後以来なかったことだ。
「どうして…」
 つい言葉が零れ落ちた。聞く者とてないのに。聞く者がないからこそ。大体人の姿すらもう長年見ていない。僕の為の世話係がいるのは知っているし、食事や掃除、着替えや寝具を清潔に保つために人が部屋に出入りしていることも承知している。けれどその世話係を見たことはない。極端な話、女なのか男なのか、若い者なのか老人なのかも知らないのだ。彼らは僕を恐れ、僕に会わないように十分に気をつけているから。
「また変わったのか」
 世話係が既に何人か変わっていることも知っている。暗闇の中で生活するにしても小さなクセは感じ取れるものだ。食事の用意の仕方、うっすらと残る香り、気配は人それぞれに違う。僕がこの役について以来、そうした気配が幾度が変わっている。多分長くは務められないのだろう。灯りさえろくにないこの暗闇の塔に人は長居できないらしいから。
 これまで極力こちらと接触しないよう、僕のことを避けてばかり来た世話係とは明らかに違う様に興味が沸く。そう言えば部屋の中に灯りが置かれていたと言うことは扉を開けたのだろうに、僕はそんなことも気づかずにいた。これはもしかして良くない兆候なのだろうか。心の奥ではそんなことはないと声がしているが。つらつらとそんなことを考える。

 僕は灯りがなくとも困らない。そう言う体質に生まれついている。星見として生を受けた時から、暗闇の中で生活することを定められたあの時から、暗闇に対する恐怖も困惑も持ってはいない。けれど今夜、僕はゆらゆらと揺れる自分の影を楽しみながら着替えをすませた。灯りがなくても困らないが、灯りがあっても困らない。これまでの世話係は僕が灯りに当たるのはいけないことなのだと思っていたようだが、別にあってもなくても変わらないだけ。けれどそれを彼らに教える必要は感じなかったから知らせずに来た。必要最小限の伝達、それすら彼らの心を掻き乱すのだと知っていたから伝えなかった。
 部屋を出る際、灯りは消さなかった。誰がつけてくれたのか知らないが、それが僕に対する気遣いに思えたから。多分星見を終えて部屋に戻る頃には蝋燭は燃え尽きているだろう。灯りを必要としない部屋にその灯りは無用のものだと判っていたが、心の奥底で小さく掻き立てられる想いが揺らめいているのを感じたから。灯りに呼応するようにゆらゆらと僕の心に熱をともしたから。灯りは消さずにおいた。
 扉を開ければそこは今日も闇だ。僕は躊躇いもなく踏み出す。灯りはなくても困らない。
 やがてそっと塔の最上階の扉を開けた。晴れ渡った夜空に星が瞬いている。ここではいつも満天の星空だ。雲は塔の中ほどより下にかかるから。地上がどれほどの雨に煙っていたとしても僕が見上げる空はいつも星空でしかない。

 真夜中。
 全てが寝静まり静寂に満ちたその時間が僕の生きている時間だ。
 星を見上げる。僕の心の揺らぎなど知らぬげに、星は大きな変化を見せてはいない。些か妙な気分になった。なるほど僕は星見だけれど、天と一体と言う訳ではないのだった。小さく笑いが零れる。何を判り切った事に感心しているのか。

 真夜中。
 いつもならばこの星の下、自分は独りで存在するように感じていた。たった独りきりの濃密な時間。星の語る言葉だけを見つめて過ごす。それが僕の人生だと思っていた。
 けれど今夜、僕はこの時間の向こうに人の息遣いを感じながら星を見上げている。星は変化を見せず、明日はこともなしと短く伝えるだけで済む。それがこの国の王に伝わって行くのだと言うこともずいぶん久しぶりに思い出した。

 手紙を書こう。僕には不要だけど僕の心にはとても大切なものを齎してくれたあの一本の蝋燭のお礼の手紙を。今度の世話係は多分怯えたりしないだろう。だから安心してお礼を伝えられる。
 そんなことを思いながら僕は星が西の空に傾いて行くのを静かに眺め続けていた。

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4月のお題「真夜中」;ちゃり

旅先の駅で、終電に置いて行かれたことがある。
五人の仲間で行った卒業旅行。地元の人に教わった飲み屋の居心地が良く、思いのほか長居してしまった。逗留先のホテルへは電車で戻らねばならなかったのだが。
「なに。この電車ここで終わりなの?」
「…終点だって」
「って、ここどこ?」
「さあ~…」
「車庫へ入るから降りろって」
「って、どーすんだよ。終電だぞこれ」
「どこ行きか確かめなかったのか?」
「戻る電車あるかな…えーと、時刻表は、あ、あった。どれどれ」
「ねーじゃんよ。電車」
「ここからタクシー乗るか」
「なんかしょぼい駅だなー。タクシー拾えんのかなココ」
「だから、さっきの駅でタクシー拾ったほうが良かったんだよ」
「今言うな」
「おいおい。改札誰もいないぜ」
「無人駅なの?」
「それはどうかな。終点になるような駅で」
「とにかく出ようぜ」
「うわっ。すんごい風」
「バスターミナル…タクシー乗り場があるけど、一応」
「誰もいねーじゃん。車も一台も」
「寂しー駅だなー。何だよここ」
「あっ」
「信じらんねー。駅の電気消えちゃったよ」
「終電出たからって、電気消すかなー」
「真っ暗だよ。どうすんの」
「なんかブキミ…。真っ暗な駅って」
「どうする。歩く?」
「タクシー来そうもないし。そうすっか」
「行くか戻るか…」
「うーん」
「わ!」
「わ。って、何」
「空、空。見てみ」
「はぁ」
「うわあ!」
「すっごい…星空」
「…満天の星ってやつ!?」
「凄い!」
「あれ何? あの赤いやつ」
「火星かな?」
「火星ー? 火星が見えんの?」
「見えるだろ」
「おまえ詳しいなー。星座とか分かる?」
「分かるやつは分かるよ」
「あれは?」
「あれはオリオン座だよ」
「じゃー、あっちのあれは」
「オリオン座」
「同じかよ!」
「じゃーあっちのもオリオン座かよ!」
「そうそう」
「それしか知らねーんじゃねえか!」
星明かりの下、強い風の吹く中、ぼくたちは笑いあいながら、線路の脇をずっと歩いた。
学生時代、最後の夏の、真夜中をずっと歩いた。
ホテルに着いたときは、ぼくたちの後ろで空が白み始めていた。
まるでぼくらがこの町へ、夜明けを連れてきたようだった。
これからぼくらが出て行く世界は果てしがなく、先のことはまだ何一つ分からなかった。まるで明かりのない真夜中のように。
けれどもこの仲間たちと一緒なら、きっとどんな夜も切り抜けて行けると、そう思えた旅だった。
若い頃の、もうずいぶんと昔の話だが、今でも輝かしく、鮮やかに覚えている。

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