12月のお題「クリスマス」-2 :麻唯

今日はクリスマス。
皆様、自分の大切な方とお過ごしですか?

私はクリスチャンではないので、詳しいことは全然知らないのですが、本来なら何日も前から聖書の教えに従って準備やお祈りをして厳粛にキリストの生誕を祝うようですね。
「神を信じる人」に限定されているようなのが残念ですが、大勢の人が同じ日に家族や友人の幸せを願い、集ってお祝いをするその姿はとてもステキなことだと思います。

典型的な日本人としての認識しかない私は、街のイルミネーションに心躍らせ、チキンとケーキを買って来て、テレビから流れるクリスマスソングを聞きながら過ごすくらいしかやりませんが。

この時期になると”あなたが寝てる間に”と言う映画が観たくなります。あいにくDVDは義姉に貸してしまっているので手元になく今年は観ていませんが、サンドラ・ブロックとビル・プルマンのロマンティック・ラブ・ストーリーです。
ラブストーリーなんて私のキャラじゃなーいと思うのですが、観終わった後幸せになれる映画です。私としてはあんな形のクリスマスってステキだなぁ…と思います。

憧れはしても、現実にはロマンティックのロの字もなく家族といつもどおり過ごす今日でしたが、自分の大切な人の幸せを思いつつ、さて、チキンでも食べましょうか(笑)。

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12月のお題「クリスマス」 :ちゃり

絢爛と、燦然と、イルミネーションの輝く季節がまた訪れています。
毎年このクリスマスの時期、高校時代の仲間たちと集まっています。
同級生ではなく、図書室に入り浸っていた生徒たち。昼休みや放課後、教室よりも図書室にいたほうが楽しかった。
図書委員の子、本や漫画が好きな子、なぜか美術部の人、帰宅部の子も。
卒業までは9人の集まり。
卒業後、まもなく実情8人になり、その後メンバーの結婚や転居で、来たり来なくなったりするうち、今はほぼ3人で固定しています。
学生のうちは9人で、互いの家を行ったり来たりしていたことを思うと、何とも言えず寂しいような気分になることも。
昼間、学校で同じ時間を共有しているうちは、互いの目線の向きの違いをあまり意識することはなかった。けれども学校の枠を解かれたとたん、少しずつ距離が開き始めた。

まだ卒業間もない頃、ほぼ全員で集まることができていた頃、みんなでお金を出し合って、生まれて初めてシャンパンでクリスマスを祝った。あのドンペリニョンの味、モエエシャンドンの味。皆で乾杯したら、一杯ずつでなくなってしまった。
友人の暮らす部屋にひしめき合って、ローストチキンと、ミートソースのパスタ、ホールのケーキも買って、記念写真を撮った。
振り返ってみれば、あの時代こそが、いま街中を飾るどんなイルミネーションよりも輝かしく見える。

そんなふうに過去を懐かしむ気分になる時がある。でも…
今、消息不明の人さえあるけれど、きっと皆それぞれの場所で、輝いているはず。
私も、しっかりと前に目線を据えて、輝きながら進んでいきたい。

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11月のお題「木枯らし」-2 :麻唯

すみません。お題は明日書きますなどと言ってから早1週間以上。危うく11月が終わっちゃうところでした。
木枯らしにやられて咳風邪を悪化させ、毎晩早寝をしていましたです。
あっちでもこっちでもコンコンコンコン。皆様も風邪にはお気をつけ下さいね。

時折話題にしていたりするかと思いますが、私は風の吹く日が好きです。
木々をざわざわと揺らす風にはとってもわくわくするんです。
そこで木枯らしはどうなんだろうと自問自答してみたところ、もしかするとやっぱり好きなのかも知れないと思い至りました。

いや、勿論あの冷たさは嫌いですし、早く暖かくならないかなーとか思ったりもするのですが、それとは別にあの「何かが起こりそうな」ざわざわした気持ちも確かに存在するようで。特に木枯らしには枯葉が立てる音もプラスされるので、ざわざわ加減がより一層増すと言うか何というか。風好きの私としては心落ち着かなかったりします。

ビュービュー音を立てて吹きすぎて行く風はどこから来てどこへ向かうのでしょうね。
これからどんどん寒くなってコートの襟を立てて俯き加減に歩く日が増えそうですが、時には風の音に耳をすませながら木枯らしすらも楽しむような、心にゆとりある日々を送りたいものです。

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11月のお題「木枯し」 :ちゃり

今日、今年の木枯一号が吹いたそうです。
明るい日差しに、並木の黄葉が美しく、強い風に枯葉が吹雪のように舞っていました。
枯葉の吹雪が、今までとは違う世界へいざなうように思えます。
夏の熱と光輝を閉ざし、色鮮やかな秋を経て、冷気と雪白の冬へ。
冬、ときに命を奪うほどの寒さを乗り切るためには、昔は囲炉裏端の昔語りや、正月の
祝い、それがなくとも家族で身を寄せ合ったり、そういう楽しみがあったでしょう。
今、暖房や豊かな食事、しっかりした家のある暮らしの中で、毎年当たり前に訪れる冬
を乗り切るのは容易くなりました。そして当然そこにあるべき、心のぬくもりはどうで
しょうか。
今でも現実に寒さで命を奪われかねない、そんな暮らしを送っている人々には、心のぬ
くもりなど綺麗ごとでしかないでしょう。
けれども、心の寒さによって命を失うことが、今の世の中では増えているように思われ
てなりません。
何かが足りない飢餓感、寒さ。木々を裸にしていく木枯しが吹き荒れるとき、それを乗
り切るには何が必要でしょうか。
それはお金でもいいけれど、決して、暴力ではないはずです。
どんなに満たされていなくても、人のものを奪わない。
満たす何かが与えられないのを嘆くよりも、創り出し、もし余ったら分け与えること。
もしもそれができたら、やがて来る春の訪れは、なおさら身を震わすほどの喜びとなる
のではないかと思います。

これが今日、木枯し1号と、その他の新聞記事を読み考えたことです。

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10月のお題「紅葉」-2 :麻唯

紅葉と言えば、私の中ではこれまでずっと「赤」なイメージがありましたが、実は先日、黄色もオレンジもきれいなんだなーと思うに至りました。

法事で故郷へ行ったついでに森林浴に足を延ばしたのですが、今年はまだ紅葉が始まったばかりと言われていたにもかかわらず、きれいな森に癒されて来ちゃましたよ。

ひのきの森が広がる広大な敷地の中にハイキングコースが7本あって、私達は「渓流コース」なる道へ。木の根が張り出した森の道を渓流に沿って歩く1,5kmなのですが、とにかくマイナスイオンが一杯って感じで良かったです。

その川沿いの木々の内の数本が赤や黄色やオレンジに染まっていて、濃淡のある緑と相まってきれいなこと。コントラストがいいんだよねーと言い合いながらとことこと。
道のりの半分までは森の中で整えられた道ではなかったので、ともすれば足元ばかりを見て歩いている自分に気付いたりするわけですが、森全体が色付いたらきっと足元なんて見ている余裕もないことでしょう。

残念ながら自分の体力と、旅行の時間配分と、あいにくの山の変わりやすい天気に1本しか歩けませんでしたが、またいつか行ってみたいと思います。できれば紅葉真っ盛りの頃に。でもその頃はきっと人が一杯で避けちゃいそうな気もしますけど(^_^;)

拾って来たもみじの葉はやっぱり赤でしたが、黄色や緑と取り混ぜて栞とか作ってみるのも良かったかも。これもいつかの課題としましょう。
皆様も色付く紅葉の山や森をのんびりと歩いてみてはいかがでしょうか。


今回行った場所 : 信州木曽 上松 赤沢自然休養林

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10月のお題「紅葉」 :ちゃり

紅葉と言うより黄葉ですが、思い出すのは青森の峠道です。
青森に住む友人の家にお邪魔したとき、ご家族が車で近隣を案内してくださいました。
秋の森の峠道を移動中、私は車に酔ってしまい、路肩に停車してもらいました。エンジンを切ると、あたりはしーんと静かでした。
本当に静かです。
密やかな冷たい空気に頭を冷やしながら、しばらくシートにもたれて目を閉じていました。
やがて具合が良くなってくると、微かな、不思議な音に気がつきました。
途切れながら、カラカラ、と。カラリ、カラ、カラ、からり・・・
何の音だろう。気づくと、道脇の斜面の下から聞こえてきます。
身を起こして、音のするほう、森のほうを見ました。
それは乾いた木の葉が散るときに、他の葉と触れ合う音でした。
風もない中、秋の木の葉が自然に落ちる音を、初めて聞きました。またそれ以後、あの
音を聞いたことはありません。
音はしているのに、気づかないままでいるのだろうと思います。
私なりに、すべきことをしながら日々を過ごすならば、とりたてて、枯葉の落ちる音を
聞く必要はないのかもしれません。
ただ、その音は、誰も聞くことがなくても、鳴っている。夏を過ぎた木の葉が、すべき
ことをし終えて落ちていく音が、どこかで鳴っている。
少し寂しいけれども、きれいに乾いた音を、時おり思い出します。

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9月のお題「お月見」-2 :麻唯

月光浴と言う言葉がありますが、この数日はまさにそんな言葉が似合う晩でしたね。
あいにくと今夜の東京は雲が出ておぼろ月のようですが。
中秋の名月がとてもいいお天気で、かつ三連休の中日だったと言うのはとっても嬉しい事でした。

休みの気安さもあり例年になくこの三日ほどベランダにイスを出してぼーっと眺めていました。残念ながらお月見アイテムは何もなく、身体一つで眺めているだけでしたが。やっぱりお餅ついてるうさぎが見えるなぁとか、行けるものなら行ってみたいなぁとか。そんな取りとめもないことを考えつつ。気付けばうとうとしちゃってたりして。
本当はもっと深更の、丑三つ時くらいに眺めていたかったのです。その時間だとベランダからは見えないので諦めましたが。お散歩と言う手もありますが、そうすると街の明かりの方が強くて月明かりを堪能できないので却下です。ベランダにイスを置くと柵が丁度明かりを遮ってくれて月明かりだけを楽しめるんですよ。

冴え冴えとした月の明かりをぼーっと眺めていると、自分まで何だか清かな気持ちになって来ます。
夜の闇さえものともせず、不思議な陰影をつけて地上を明るく照らしてくれる月の光がとても好きです。

普段は日常の喧騒に押し流されてばたばたと時間を過ごす自分が、じっと月明かりを眺めながら静かに過ごせるのは贅沢だなーとつくづく思いました。他にやるべき事もやりたい事もたくさん山積みしていて、それらに目を瞑っての月光浴でしたが、何だか少しだけ、気持ちが洗われたような気がして。

日光浴も身体に大事だと思いますが、私はこれからも月光浴の機会を作りたいです。
そうして清麗な光照らす闇の中で自分らしさを取り戻たら、気持ちをリフレッシュしてまた先へ進んで行きましょう。

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9月のお題「お月見」 :ちゃり

今回は、エッセイ思いつかないので、お話で。ありだべ?

***

物探しを請け負う遠眼鏡屋のともだちは、金細工師だ。

秋のお月見の頃にも、せっせと金の鎖を編んでいる。
日がな一日作業台に向かい、口も利かずに編み続ける。
家には小さな男の子が一人いて、部屋から部屋へと歩き回っている。足音はとても静か。だから金細工師は、作業台にいる間、子供のことは忘れている。
ものも食べず、水も飲まず、一本の鎖を長く、長く、延々と編み続ける。細い金の鎖が、どんどん長くなる。

お月見の日がきた。
日が暮れるころから、雲がもくもくと現れ、空を覆っていった。
残光を、一番星を覆い、とうとう空一面を隠してしまった。
金細工師の家へ、遠眼鏡屋がやってきた。
縁側に、お月見の支度がすっかり整っている。三宝に盛られた、白くて丸いお団子。徳利にススキを挿して飾り、子供が得意げな様子で、遠眼鏡屋を迎えた。
遠眼鏡屋は、風呂敷包みを広げ、空の杯を三宝の横にひとつ置く。
遠眼鏡屋と子供は、二人並んで縁側に腰掛け、金細工師が降りてくるのを待った。

金細工師が、作業台から降りてくる。丸めた金色の雲のような、長い鎖を携えて。
遠眼鏡屋と子供の後ろに立って、鎖の端を手繰り出す。
細い鎖がするすると、空に昇っていく。やがて鎖の先は雲間に消え、金細工師はなお手元から、鎖を手繰り出し続ける。
金細工師の手の中には、雲の間から下がった鎖の、もう一方の端が残った。
金細工師は、鎖の端を、空の杯の中に垂らした。
鎖を伝って、雫のように、月の光が降りてきた。
ほろほろ、くるくる、したた、したた、杯の中を満たしていく。
なみなみと月の光を湛えた杯は、まるく、きらり、ぴかり、ひかる。

金細工師は、ようやく縁側に腰を下ろし、ひとつ大きく息をついた。

「ああ、やっぱり、本物のお月さんには、かなわねえ」
「いや、なかなかの、ものですよ」

遠眼鏡屋は、風呂敷包みから杯をもう二つ取り出し、徳利の栓を抜く。

「ご一献」
「戴きましょう」

子供はお団子をほおばって、にっこりと笑った。

おしまい。

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8月のお題「花火」-2 :麻唯

花火を見ていていつも思うのは、そのたった一夜のたった数秒の煌きのための桧舞台であると言うことです。
研究に研究を重ね、慎重に火薬を調合して、丁寧に丁寧に火薬玉を作り上げて行く、その時間に込められた情熱をすごいと思います。
やり直しはきかず、上げて見なければ本当の意味では成功したのかどうか計れないその一瞬を作り上げる職人の方々に敬服です。いえ、多分職人仕事と言うのは大なり小なりそうしたものなのでしょうが。

ちゃりさんも書いていましたが、たった数秒の内に消えてしまうのに、しっかりと人々の心に華やいだ記憶を焼き付けてくれる花火。形として残るわけではないそれを毎年各地で見られるのは実は贅沢なのではないかと思ったります。

しかし今年の私は生の花火は全然見に行けませんでした。元より人込みが余り好きではないので(某所の夏冬は欲求の方が勝って出かけて行きますが)、人が集まる場所は避けてしまう傾向にありますので。隅田川の花火をテレビで見ているのが限界でした。
あのお腹の底に響く音や火薬の匂い、夜空と光のコントラストなど、その場でしか堪能できないものもたくさんあるとは思うのですけれどね。残念。

私としては長く尾を引く大きな柳のような花火が好きです。勉強不足で何と言う名前の花火か知らないのですけれど。
地面に届けとばかり夜空を飾る金色の光の滝を見る度に歓声を上げつつ、いつまでも消えなければいいのに…と無茶な希望を抱いたりしています。
でも多分。一瞬で消えてしまうからこそ名残惜しく、そして美しいと感じるのでしょうね。

空に弾けて消えて行くその一瞬一瞬が桧舞台である花火を作るように、自分のできること、やりたいことを丁寧に情熱を持ってやって行きたいものです。

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8月のお題「花火」 :ちゃり

花火が人の心を捉えるのは、夜空とのコントラストとともに、それが一瞬で消えてしまうから。
記憶に刻む間もなく次々と打ち上がり、夜空を染め替えては消えていく。その瞬く間の印象が、まるで永遠のように強く心に残る。

それは毎日の暮らしにも似ているところがあると思います。
一日のうちに、さまざまな出来事が起こるうちに、時間はさして意識することなく過ぎていきます。
朝、窓の外をその日最初に見たときの空と雲のようすや、空気の感じ、触れるものの手触り、人と交わす何気ない言葉、食べるものの味や、さまざまな街の音や・・・
それらの中にある一瞬のきらめきが、捉えどころのない無数の砂粒のように、私たちの周囲を絶えず流れ落ちています。
時にそれは手の中で鮮烈に輝く線香花火のようで、あるいは大空に花開いて皆で感動を共有するスターマインのようで。
いずれにしても過ぎてしまった時間、取るに足りないと忘れていたささやかな思い出が、黄昏のような記憶の中からふと蘇ることが、誰にもあると思います。また、不意に現れる過去が息を呑むほどに鮮やかで、驚いたりすることもあるのではないでしょうか。
幾つもの美しい花火が、記憶の中で永遠に燃えるといいと思います。
そのために、さまざまなことを見聞きし、また、いつかは自分でも美しい花火を高く打ち上げてみたい。私たちにとっては物語を作ること、文章を書くことが、くらがりの中にささやかな火を灯すこころみであろうかと思います。

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